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ウシュアイアの町の外れに、上野亭という小さな日本人宿がある。
上野亭を作った上野一家は、昭和三十八年、移民としてアルゼンチンへやってきた。このウシュアイアへ来たのは二十年以上前。当時のウシュアイアは最果ての地に相応わしく、本当に小さな町だったという。
旦那さんはマスがよく釣れるから、奥さんはカニをたらふく食べられるから、嘘か誠か、そんな理由でウシュアイアへ来たらしい。
旦那さんは既に亡くなってしまったが、今でも八十五になるお婆ちゃんになった奥さんが、ひとりで宿を続けている。南米を旅する日本人で、この宿の存在を知らない者はいない。上野亭に泊まるために、ウシュアイアへやって来ると言ってもいい。
でも今回は、その宿の話でもお婆ちゃんの話でもない。宿にいる犬の話、いかにその犬が可愛くて賢いかという話。
名前はトゥルーチャ。僕はトゥルーちゃんとか、トゥル子とか呼んでいる。犬の名前というのは、それ自体があだ名だが、犬はあだ名にあだ名を付けられてしまうという宿命にある。
もし犬をあだ名のあだ名で呼んで、本名であるはずのあだ名がわからないような呼び方をしている人がいたら、きっとその人は生粋の犬バカだと決め付けてかかって間違いない。
犬はすべてのパーツが可愛い。ふさふさの柔らかい耳も、嬉しいと思わず振り回してしまうシッポも、ぜんぜん武器にはならなさそうな丸い爪も、ゴムパッキンのような唇も、みんな可愛い。
仕事からヘトヘトで帰っても、酔っ払ってベロベロで帰っても、いつも嬉しそうに出向かえてくれる。犬は人に対して、決して態度を変えない。側に居るだけで、その存在が心を癒してくれる。
ただし、誰かれ構わず犬歯を剥き出しにして吠えまくる犬はいけない。中国の犬市場に送ってしまうぞ、と脅してやりたい。あそこは犬にとって南極大陸よりもつらい場所だ。
トゥルーチャのあごの毛の白さ具合から判断して、たぶん三才か四才くらい。メス。雑種。見掛けはシェパードだが、よく見ると微妙に違う。性格は極めて温厚で、名前を呼ばれると必ず寄ってくる。
トゥルーチャというのはスペイン語でマスの意味らしい。犬なのに魚の名前を与えられた気の毒なトゥルーチャ。
一年中つけっぱなしのストーブの前で、いつも寝転がっている。朝には寝ている宿泊客を鼻でつついて、冷い鼻水で起しに来る。起こして何をするかというと、撫でてくれとベッドに頭を乗せる。
意識が半分眠ったまま、一分ほど撫でてあげると満足して立ち去っていく。しばらくするとまた起こしに来るから、また同じことを繰り返す。
どうやらトゥルーチャは日本人とアルゼンチン人の区別が付くらしい。泊まり客の日本人にはまったく吠えないが、玄関先に郵便配達のアルゼンチン人が来たりすると、立派な犬歯を剥き出しにして烈火の如く吠えまくる。
僕はいつか、トゥルーチャが郵便配達人を怒らせてしまうのではないかと心配だ。なんと言っても郵便配達人は梱包と配達の達人だから、中国の犬市場に国際郵便で配達されてしまうかもしれない。
一日の大半をストーブの前で過ごし、常に誰かに撫でられているトゥルーチャ。いつもゴロゴロして暇そうにしている。
NHK の大河ドラマで、息子に追放された武田信虎と山本勘助が抜刀して対峙しても、おかあさんといっしょの、いとうまゆおねえさんがズーズーダンスを踊っても、トゥルーチャは全く興味を示さない。たとえ、おねえさんの動きが速くて子供がついてこれなくても、やはり無関心、ゴロゴロしている。
僕がおよそ二ヶ月に渡り観察したところによると、トゥルーチャの関心事は、どうやら次の三つのようだ。
隣の犬の吠える声。誰がステーキをわけてくれるのか。そして最も元気を発揮するのが、散歩である。
僕は夕方になると、毎日トゥルーチャを散歩に連れていく。雨の日も、雪の日も連れて行く。風の日も、僕が風邪をひいていても連れて行く。夕方になり、そろそろ散歩の時間じゃない? とトゥルーチャがやってくると、もう連れていかないわけにはいかない。
散歩の時のトゥルーチャは、まるで、いとうまゆおねえさんのような元気を出す。やっぱり本当は、ストーブの前でゴロゴロしていたいわけではないのだ。
散歩コースである丘の上には、時々、馬がいる。トゥルーチャは馬を見つけると弾丸の如く駆けて行き、馬に向って吠えたてる。僕はいつか馬を怒らせて、強烈な後ろ蹴りを喰らってしまうのではないかとハラハラしてしまう。しかし今のところ、どんなに大声で吠えたてようとも、馬の耳に念仏でしかない。
今度、郵便配達人が来たら、馬に乗って配達をしてはどうかと提案してみようかと思う。
僕はすっかりトゥルーチャが好きになってしまった。カレーライスか牛丼をわけてあげてもいいくらい好きだと言えば、その好きさ加減はかなりの物だとわかっていただけるだろう。
皆さんも、ここまで読んですっかりトゥルーチャの可愛さに魅了されたはずだ。今頃はトゥルーチャに骨付き肉を送るべく、梱包を始めたところだと思うが、その前にもうひとつ、いかにトゥルーチャが賢いかを話しておきたい。
客は入れ替わり立ち代わりやってくる。みんなトゥルーチャを可愛がって、愛情を注いでいく。しかし、数日もすれば、みんないなくなってしまう。
客が荷物を抱えて宿を出て行く時、トゥルーチャは決っして外まで出てこない。廊下の奥に座り込み、見送りをしようとしない。自分を可愛がってくれた人が、もう二度と帰って来ないことを知っているのだ。
僕も明日、この宿を出る。僕には前もって出発の日がわかっていても、トゥルーチャには、いつも突然の別れ。
今まで出発を寂しいと思った事など、一度もなかった。いつものようにトゥルーチャが、撫でてくれとやって来る度に、僕は、ごめんねとつぶやく。もう行かなくちゃいけない。
「馬の耳に念仏…」
うまいなぁ。。。なんつって。
加倉兄さん・・・
相変わらず優しいですな。。。
ダハブでの猫ちゃんへの愛情を思い出しました!!
最後のフレーズ悲しすぎます。
犬ネタとはまぁズルい…(笑
思わずコメントしたくなります!
トゥルーチャは訓練された犬なんでしょうかね。
以前、また別の国で旅行客には吠えないが、地元の人にはスゴい剣幕で吠えている犬が宿にいました。
宿主は「しっかりトレーニングしているよ」と言っていました。
「うちはセキュリティはしっかりしてるよ!」を裏に含んだ単なるデマカセだったかもしれませんが…
出発から1,600日、おめでとうございます!
トゥルーチャ的には、毎朝確認しに来ているのでしょうね。加倉さんがいなくなった部屋に、トゥルーチャはまた頭をなでてもらいに来るのでしょう。
なんか泣ける文章じゃないですか。おばあちゃんとのアサードやトゥルーチャとの散歩、思い出すなあ。
イースター島の宿の犬、かわいかった!近くの漁港に行くたびに、必ずついてくる。何度も振り向いて、行き先を確認する姿がたまらなくかわいい!加倉さんも是非イースターに行って虜になってください。
俺もウシュアイアにいた頃、トゥルーチャの甘えんぼ攻撃にはまったくかないませんでした。
あの上目遣いは誰に教わったんだろう!?
そこいらの女の子より上手く女を使いますもんね(笑)
確かに、イースター島のミヒノアキャンプのウニ(犬の名前)も可愛かったよね☆
大輔さん、こんにちはo(^-^)o
トルコのカッパドキアでも犬に愛情をたっぷり注いではりましたね(*^-^)b
犬が本当に大好きな大輔さんの人柄を、きっと犬たちもわかるんでしょうねo(^-^)o
色々あって結局 ニューヨークへ行ってきましたヾ(≧∇≦*)ゝ
ニューヨーカーも犬好きの人が多いみたいで、散歩してはるところをよく見かけましたよ('-^*)/そのたびに大輔さんのことを思い出しました(*^-^)b
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