
| 世界一周旅行ときどき日記 |
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| 電話の向こうの10年ぶりの声 | 海印寺 |
釜山への滞在にはある目的があった。僕がアメリカに語学留学していたときに知り合った韓国人女性の友達を訪ねることだ。韓国人の友達は何人かいたが、その中でも僕はその女の子と一番仲がよかった。同じクラスメートで、お互い下手な英語を何とか駆使してよく話をしたのを思い出す。語学学校の卒業時期がちょうど重なり、まる2日をかけてニューヨークまで列車の旅をしたこともあった。僕は留学からの帰国時に彼女の故郷である釜山を訪ね、その後数年間文通を続けたが、いつのまにか手紙の行き来は途絶えてしまった。最後に会った時からすでに10年の月日が流れている。
彼女の名はシンヒという。10年前にもらったシンヒの実家の住所と電話番号は、今でもしっかり僕のコンピュータに入っている。地図で場所を調べてみると、宿から歩いてでも行けそうな距離だ。しかし10年前に会ったきりだし、すでに引越しているかもしれない。年齢から察して結婚して子供がいてもおかしくない年だし、今でも両親と一緒に暮らしているとはかぎらない。電話をしても彼女がいなければ話は通じない。僕は電話をかけるという小さな勇気を出せずに数日間を釜山で過ごしていた。
いつものように宿の公衆電話を見てはどうしようかと考えを巡らせていた僕は、宿の主人に代わりに電話してもらうという他力本願な方法を思いついた。事情を話すと主人は快く引き受けてくれて、さっそく電話をかけてくれた。電話の向こうから声が聴こえる、韓国語で話をしているのでさっぱり内容はわからない。彼らの話が終わるまでの間、僕は期待感と不安でいっぱいになりながら、主人が電話を切るや否や 「どうだった?」 と急かしたてた。主人は僕の方へ向き直ると、ゆっくりとこう言った 「彼女は今ソウルで暮らしている」 手渡してくれたメモには携帯電話の番号が記されていた。
持ち合わせのコインが無かった僕は、次の日の夜に駅の公衆電話から電話をかけた。もちろん聞えてきたのは韓国語だが、確かに彼女の声だ。最初に何から説明しようか考えてはいたが、電話が繋がったとたんに頭の中で準備していた言葉のすべてが吹っ飛んだ。僕はしどろもどろになりながら、「大輔だよ、覚えてる?」 といきなり話を切り出してしまった。彼女の反応は至って平静で、「え? 何言ってるの? もちろんよ」 と不粋な質問に少し驚いたような呆れたような声だ。「どうして私の電話番号を知ってるの?」 と尋ねる彼女に、僕はしどろもどろのままいきさつを説明して、まるで不審者扱いでもされているかのような複雑な気持ちになった。彼女の反応は10年ぶりの声を歓迎するような話し方ではなかったからだ。
実はなかなか電話をかけられなかった理由のひとつに、文通を僕が終わらせてしまったという負い目があった。最後に手紙を出さなかったのは僕の方だった。まさか10年前のことを今も怒っているとは思えないが、僕はその事を気にして連絡できずにいたのだ。しかし、僕のしどろもどろな説明を聞く内に、彼女の声の調子が急に跳ね上がったではないか、「大輔? あの大輔!」 どうやらどこかの誰かと間違えていたらしい。彼女の仕事の顧客に僕の声とよく似た日本人がいて、その人物がいきなり電話してきたと勘違いし、不思議に思ったというのだ。電話の向こうで一生懸命間違いを説明しようとしているが、彼女の声はずっと跳ね上がったままで、急激に早口になり、話があっちこっちに飛んでいて、まるで的を射ていない、10年ぶりの突然の電話に躍り上がってしまっている、僕が期待していたのはこういう声だった。後で聞いた話だが、電話を切った後、実際に部屋の中を跳ね回ったらしい。僕も嬉しさのあまり地下鉄の階段を駆け上って、軽快な足取りで宿へと戻って行った。電話の向こうには確かに10年前の彼女がいた。
シンヒがソウルだとわかった以上、釜山に長居をする理由は無い。彼女と1週間後にソウルで会う約束をした僕は、荷物をまとめて思い出の地を目指した。釜山からバスで1時間半ほどのところに慶州 (キョンジュ) という町がある。10年前シンヒが連れて行ってくれた場所が慶州だったとわかり、もう一度行ってみることにしたのだ。僕は早速、高速バスに飛び乗ったわけだが、運の悪いことに僕が乗ったバスの運転手はものすごいスピード狂だった。
客は僕と韓国人の若い男性の2人だけ、バスの中には運転手を含めても3人しかいない。ハイウェイをかっ飛ばし始めた運転手は、まるでウィンカーの存在を知らないかのように、まったく方向指示などせずに、右へ左へと車線を変えながら、次々に他の車をごぼう抜きしてゆくではないか。そんなに急いでもらう必要はまったくないのだが、運転手はサンダルに履き替えた足で精一杯アクセルを踏み込み、救急車さえも追い抜きそうな勢いで我が物顔で疾走するのだ。車線が塞がれようものなら、舌打ちをして、韓国語で一言二言文句を言ってから、容赦なくパッシングを浴びせ、これでもかと言わんばかりにクラクションを鳴り響かせる。最前列に座ったことをかなり後悔したが、この勢いで追突すればどこに座っていようが同じだろう。彼の高速バスは文字通り高速なのだ。
いったい何キロでかっ飛ばしているのか興味をもった僕は、スピードメーターを見たくなった。はたして何キロだったら僕は驚くだろうか、130キロくらいは出しているんじゃないかと、妙な期待を込めて前かがみで覗き込んだ。そして心底驚くこととなった。メーターの針はゼロを指している、ピクリとも動かない、壊れているのだ。可能な限りアクセルを踏み続ける彼にとっては、スピードメーターなどあってもなくても関係無いのだ。驚くと同時に吹き出しそうになった僕は、ふたたびシートの背もたれに身を任せ、心の中でこう呟いた 「できるだけ急いでくれ」。
激しく揺さぶられて眠れるはずもなく、そのかわりまったく退屈することもなく、超高速な高速バスは慶州のターミナルへと到着した。運転手はたった2人の客が降りるとすぐに、「釜山! 釜山!」 と大声を張り上げ、まるで 「慶州には居たくない! 一刻も早く客を乗せて釜山へひき帰すぞ!」 と主張しているかのようだった。僕はその運転手が無事に定年まで勤め上げられるのかどうか、余計な心配をしながら、重たい荷物を抱えて宿を探すことにした。
さすがに有名な観光地だけあって、宿はいくらでもあった。いくらでもあるというより、宿ばかりなのだ。韓国では日本の温泉マークが宿の意味で、ホテルもラブホテルも旅館も、みんな温泉マークを掲げている。宿を探すには簡単でありがたいのだが、それがラブホテルなのか、普通のホテルなのか、韓国語の読めない僕にはわからない。しかし韓国ではラブホテルだろうが何だろうが、誰が泊まろうとも関係ないらしい。もちろん日本でも一人でその手のホテルに泊まることはできるが、さすがに気が引ける。僕はできるだけ安そうな、貧相な宿を探して歩き、3軒目の25,000ウォン (2,500円) の宿を今夜の寝床とすることにした。
日が傾きかけていたが、ここには一日半だけのつもりだった僕は、すぐに宿を飛び出し、10年前に訪れた "大陵苑" という古墳群のある公園を目指した。慶州は紀元前57年から約千年もの間、新羅王朝として栄えた場所で、668年に朝鮮全土を統一している。その後、高麗王朝、朝鮮王朝と時代は流れ、現在へと脈々と受け継がれてきた歴史のある町だ。国内はもとより、海外からも多くの観光客が訪れる。大陵苑は町の中に位置し、宿から歩いて15分もしないうちにたどり着いた。しかし有名な観光地とは言え、冬の平日の慶州の町は人もまばらで、公園内にはほとんど人影がない。
韓国の伝統的なお墓は日本のように墓石をたてるのではなく、地中に死者を埋葬した後、1メートル程の高さまで円形に土を盛り上げ、周りや土盛りの表面すべてに芝生を植えて完成させる。ちょうどお椀に土を入れて、それを地面にひっくり返して作ったような形だ。韓国の田舎へ行くと、あちらこちらにこの様なお墓を見ることができる。慶州にあるかつての支配者達の墓は、その土盛りの墓を巨大にしたもので、大きなものは高さ20メートル以上もある。そしてその巨大な墓が慶州の町中に点在し、とくに密集している場所が大陵苑というわけだ。
巨大な墓の上まで見事に刈り込まれた緑の芝生が、青空の中でなだらかな稜線を描き、緑と青の境界線の際立つ美しさが僕の記憶の中でよみがえった。しかし冬の大陵苑に命の色はなく、冷たい空気に耐え忍ぶ色を失った芝生がどこまでもどこまでも続いていて、緑一面の景色とはずいぶんと違う印象を漂わせていた。今にも雨が降り出しそうで、夜も近く暗くなり始めた空が、よりいっそう冬の寂しさを演出していた。今の時期、観光客が少ないのは寒いからという単純な理由だけではないらしい。しかしながら違った一面を見れたというのは、ある意味僕はちょうどいい時期に再訪したのかもしれない。もし、ここがすべて雪で覆われたなら、また違った美しさを楽しませてくれるだろう。僕ら日本人には、まるで巨大なかまくらが並んでいるように見えるに違いない。
僕は公園内の最初の墓を目の前にしてある事を思い出した。10年前、この同じ墓を見た僕は、どうしても上まで登りたいという衝動に駆られ、踏み込んではいけない芝生のなだらかな坂道を駆け上り、墓の頂上で両手を広げて、シンヒに下から写真を撮ってもらった。一人で登っても誰も写真を撮ってくれるわけではないし、係りの人にでも見つかれば怒鳴られるのがおちなので、今回はやめておくことにした。僕はほとんど人のいない公園の奥まで進み、"天馬塚" を目指した。
慶州にある墓は、どれも掘り返された後などなく原形を保っているが、この天馬塚は別で、内部をくり貫き、小さな展示室に仕立ててある。内部にはこの墓から出土した遺体や装飾品、そしてこの大陵苑の目玉でもある "天馬図" が飾ってある。読んで字のごとく、天翔る馬の絵なのだが、白樺の樹皮に描かれた馬の鞍の泥よけであるらしい。この天馬が出土したことから、この墓は天馬塚と名付けられた。そして、なんと驚くことに蛍光塗料で描かれていて、電気を消すと薄っすらと光るというのだ。僕は10年前それを聞いて大変驚いたのを思い出した。そして、そんな事はすっかり忘れてしまい、もう一度知って同じく驚いた。昔の人々はどうやって蛍光塗料を作ったのだろうか。
次の日の朝、僕は早起きして再び慶州の町を散策していた。昨日から天気がよくないが、今日も空はどんよりとして薄暗い。気温もずいぶん下がっているようで吐く息も白い、朝霧の立ち込める中、まず僕は "瞻星台" (せんせいだい) へと向かった。
瞻星台とは星を観測するために、石を円柱形に積み上げて作られた高さ約9メートルの小さな塔である。真ん中あたりに、人ひとりが入れる程度の四角い窓が開いており、外からその窓へ梯子をかけて内部へ入り、塔の上へと登る仕組みになっている。瞻星台はがらんとした広い平地にポツンと位置していた。星を眺めるのが好きな人ならば、その場所が絶好の観測場所であることがすぐにわかるはずだ。
僕は子供の頃、星を眺めるのがとても好きだった。子供の頃まだ僕の田舎でも夜空は暗く、視界を遮る大きな建物も少なかった。その頃の全財産であった僅かばかりの貯金を叩いて、直径10センチの屈折望遠鏡を買い込み、限りなく広がる漆黒の神秘の世界に思いを馳せながら、何時間も何時間も望遠鏡をのぞき続けていた。今はもう僕の田舎でも住宅が立ち並び、雲まで届くパチンコ屋のサーチライトが夜空を明るく照らしている。
瞻星台は7世紀に作られ、現存する天文台としては東洋最古だと言われている。その時代、夜は本来の夜であったはずだ。月がなければ自分の手も見えないほどに暗かったはずである。当然、大気の汚染などあるはずがなく、空気は透き通り、星たちはその輝きのすべてを瞻星台まで届けていたに違いない。僕らは今、その透き通っていたはずの漆黒の夜空を失ったかわりに、巨大な電波望遠鏡を宇宙へと向け、大気圏外まで望遠鏡を持ち出し、目に見えるもの見えないものに関わらず観測できる科学技術を手に入れた。しかし僕はこのわずか9メートルの瞻星台に登り、7世紀の夜空を自分の裸眼で眺めてみたいと思った。
昼も近くなり、僕はいちど宿へ戻り少し休憩してから午後の山登りに備えることにした。次に目指す仏国寺と石窟庵は山の上にあるのだ。しかし宿へ戻ってみると宿のオヤジの姿が見えない、部屋の鍵を預けてあるので、オヤジが居ないことには自分の部屋に入れない。しばらくあたりを見回したり適当に大声で叫んでいると、ひょっこりオヤジが現れた。両手にホウキとちり取りをぶら下げているところを見ると、どうやら掃除をしていたらしい。鍵をくれと言うと、わかったわかったという仕草で手渡してくれた、そして韓国語で何やら僕に話しかける。
僕がまったく理解できていないのを悟ると、身振り手振りで説明し始めた。僕はその諦めない熱心な態度から、よほど大事なことに違いないと思い、一生懸命オヤジの意思を汲み取ろうと、その一挙手一投足に目を走らせた。何せ言葉は一言もわからないのだから、ジェスチャーゲームをしているのと同じである。オヤジの3度目の挑戦で、ようやく言わんとすることが理解できた。オヤジの伝えたかった大事なこととは、つまりこうだ、「もし俺が居なかったら、この小窓から手をつっこんで勝手に鍵を持っていけ!」 わかったわかったと大きく頷く僕を見て、ジェスチャーゲームを成し遂げたオヤジは、背中に達成感を漂わせながら再びホウキとちり取りをぶら下げて、どこかへと消えた。僕は受け取った鍵を握り締めて部屋へ戻りながら、「それって部屋に鍵をかける意味あるのか?」 とは思ったが、一番貧相な安宿を選んだのは自分なのだと考えると、そんな事はどうでもよくなった。
仏国寺は町中からちょっと離れたところにある。地図を見ると列車で二駅なので、まずは慶州駅へ向かった。仏国寺駅までの切符を窓口で買おうとすると、切符売りの若い女性が片言ながら英語で 「仏国寺へ行きたいのならバスの方がいい」 と教えてくれた。列車の駅から仏国寺までは、かなり歩かないといけないと言うのだ。駅のすぐ近くのバス停で、ハングル文字で書かれたバスの行き先を一台一台確かめていると、ほどなくして目的のバスがやってきた。
バスは1時間もしないうちに仏国寺へ着いた。広い駐車場は、寒い季節だけに閑散としている。仏国寺はとても立派な作りの寺で、この寺と、この後向う石窟庵は1995年に世界遺産に指定されている。しかし仏国寺にある木造建築部分は、1592年に豊臣秀吉軍の侵略により全て焼き払われ、その後再建されたものであるという。それでも十分に古い建物であることには違いない。石塔や石造りの部分は今でも最初に建築された当時のまま残っている。
僕はそれほど仏国寺に興味はなかったので、さっさと写真を撮ってまわり、ペットボトルに湧き水を汲んで石窟庵を目指した。石窟庵は仏国寺からさらに山の上まで登ったところにあり、バスに乗って行く事ができる。10年前に石窟庵を訪れたときはバスなどはなく、1時間ほどかけて山道を登ったのを覚えている。今回も自分の足で登ってみることにしたのだが、10年前は苦も無く登った道を途中3回も休憩し、体力の衰えを感じずにはいられなかった。
石窟庵は山の中にひっそりとたたずんで… いたはずだが、今は広い駐車場が整備され、新しい建物が回りに建設中だった。この石窟庵とは、花崗岩のブロックを一個一個積み上げて作られたドーム状の小部屋で、山の斜面に建てられ、上から土を盛ってあり、まるで山の岩石をくり貫いて作ったかのように見える。この庵の中には本尊仏である大きな石の如来坐像が納めてあるのだが、それはとても数百年が経過しているとは思えないほどの美しさだ。
10年前、僕はこの如来像を前にしてシンヒからこう説明を受けた。朝、太陽が登り、庵の奥深くに安置されている如来像まで光が差し込むと、額に埋め込まれた宝石が神々しく輝くのだという。僕は当時、如来像の額をしげしげと観察してみたが、そこに宝石は無く、ただ宝石が埋め込まれていた小さな窪みがあるだけだった。僕は 「宝石なんかないよ?」 と彼女に尋ね、そして返ってきた答えはこうだった、「日本の兵隊が略奪したのよ」。
返す言葉が無い、僕が尋ねなければ彼女はその事に触れないつもりだったようだ。もちろん戦争を知らない彼女らの世代に反日感情などはないのだが、彼女なりに気を使ってくれたのか、何か思うところがあったのかもしれない。豊臣軍といい、日本軍といい、僕らの先祖達はことごとく侵略民族だったようだ。そして今でも経済発展という大義名分を掲げ、世界の隅々まで赴いて、ビジネスという富を集める作業をせっせと行っている。
あれから10年たった今、如来像との再会を果たした僕はその額を見て驚いた。黄色く輝く宝石が復元されていたのだ。もちろん日本軍が奪った物が戻ってきたわけではないだろう、世界遺産に指定され、新しい宝石が取り付けられたに違いない。僕はその宝石を見て、すこし安心したような、これでいいのだろうかと思うような、複雑な心境でその場を離れた。宝石の窪みは埋まったが、韓国と日本との隙間は埋まっただろうか。
慶州に夜が訪れ、再び太陽が昇る頃、僕は次の目的地を目指す。
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